満員電車に揺られながら、いつも思います。
「私は何のために、ここにいるんだろう」
「ちゃんとした会社に入って、ちゃんと働いて、ちゃんと生きる」
その「ちゃんと」が、自分を窒息させていたことに気づく瞬間があります。
社会のレールから降りたい。
でも、降りた先に何があるのかわからない。
地下道を猛スピードで走る電車の中で、私の人生まで身動きを失っていました。
しかし、文学には、壊す、走る、笑う、超える、矛盾を抱えたまま生きるという、さまざまな降り方が描かれています。
今回は、そのレールから「降りた人」「降りようとした人」「降りたくても降りられなかった人」の姿を、5つの物語を通してたどります。
読んだからといって、明日の仕事が楽になるわけでも、答えが出るわけでもありません。
でも、降りたいと思っているのは「自分だけじゃない」し、「降り方は一つじゃない」と知って、救われる夜があるのです。
「レールを降りる」にも、いろいろな降り方がある
「社会のレールから降りる」と聞くと、「会社を辞める」「家を出る」「すべてを捨てる」といった極端なイメージを持つかもしれません。
しかし、勤め先や住む場所を変えることだけが、レールを降りることではありません。
周囲が決めた「普通」を疑うこと。
自分を縛る考え方から距離を取ること。
矛盾を抱えたまま生きることも、レールの外へ足を出す方法だと思います。
降り方①:チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』
破壊することでしか、自分を取り戻せなかった男
1冊目は、最も過激な「降り方」から始めましょう。
社会のレールを「降りる」のではなく、「爆破する」物語です。
主人公は、IKEAの家具で部屋を埋め、一流企業に勤め、不眠症に悩む「普通の」サラリーマン。
彼が出会ったタイラー・ダーデンという男が、すべてを変えます。
正確には、すべてを破壊していくのです。
この小説が突きつけるのは、「必死に守っている“普通の生活”は、本当に自分が望んだものなのか?」という問いです。
広告に踊らされて買った家具、世間体のために維持している人間関係。
それらを剥ぎ取ったとき、何が残るのか。
改めて自分の内部に目を向けると、そこに真っ暗な虚無が口を開けているように感じられるのは、私だけでしょうか。
読後感は決して爽快ではありません。
むしろ不快です。
でも、その不快さの正体は「自分にも思い当たるふしがある」という居心地の悪さなのかもしれません。
ブラッド・ピットが震えるほど格好良い映画版も名作ですが、内面の描写が鋭い原作小説を、ぜひ読んでみてください。
小説と映画の結末の違いについても考えさせられます。
降り方②:ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』
破壊する代わりに、走り出した男たち
『ファイト・クラブ』が社会を「壊す」物語なら、こちらは社会から「走り去る」物語です。
第二次世界大戦後のアメリカ。
語り手のサル・パラダイスは、親友のディーン・モリアーティと出会い、車やバスを乗り継いでアメリカ大陸を何度も横断します。
サルは作者のケルアックを、ディーンは盟友ニール・キャサディを投影した人物です。
彼らは安定した生活の基盤を持たず、仕事をし、金が尽きれば、また別の土地へ向かいます。
あるのは、道路と、「ここではないどこか」への渇望です。
彼らはなぜ走り続けるのか……。
読み進めるうちに、走ること自体が目的のようにも見えてきます。
社会のレールから降りるのに、もっともらしい理由なんて必要ないのかもしれません。
読んでいると、自分もどこか遠くへ行きたいという思いが膨らんできます。
同時に、「走り続けることはできない」という現実も見えてくるのです。
彼らの旅にも終わりは訪れますが、その終わり方にこそ、むしろ救いがあるように思えました。
降り方③:町田康『告白』
レールを降りて、笑う
3つ目は、社会が決めた「普通」を、言葉によって外側から眺める方法です。
町田康は、歌手活動を経て小説家となり、既成の文体や物語の規則を崩しながら作品を書いてきました。
『告白』は、明治時代に起きた河内十人斬りをもとにした長編小説です。
主人公の熊太郎は、自分の考えをうまく言葉にできず、周囲の価値観とも噛み合いません。
考えれば考えるほど言葉は空回りし、社会との距離が開いていきます。
その姿を追っていると、「普通」とされる考え方が、時代や共同体によってつくられた不確かなものだと見えてきます。
町田康の作品には、「普通」に正面から反抗するのではなく、その成り立ちを言葉によってずらしていく視線があります。
深刻な出来事の底にも、奇妙な可笑しみが流れています。
その笑いによって、社会の規範も、自分自身の失敗も、少し離れた場所から眺める余裕が生まれるのかもしれません。
降り方④:ドストエフスキー『罪と罰』
思想でレールを超えようとした青年の末路
4冊目は、社会のレールから降りようとした人間の、最も有名な「失敗」を描いた物語です。
貧しい元大学生ラスコーリニコフは、「非凡な人間は、人類のために法を超える権利がある」という理論を掲げ、質屋の老婆を殺害します。
「思想」によってレールを超えようとしたのです。
読んでいて恐ろしいのは、ラスコーリニコフの理屈が「一理ある」ように聞こえる瞬間があることです。
「なぜ自分だけがルールを守らなければならないのか」
それは、レールに息苦しさを感じるすべての人の心に潜んでいる問いではないでしょうか。
もちろん、殺人は正当化されません。
しかし、『罪と罰』は、単なる犯罪と処罰の物語にとどまりません。
「自分は特別な人間だ」という観念が、ひとりの青年をどこまで孤立させるのか。
その過程も描いています。
社会のレールから降りたいと思うとき、「自分は他の人とは違う」という感覚が支えになることがあります。
しかし、その感覚は、使い方を間違えると自分を壊しかねません。
『罪と罰』は、その危うさを突きつけてきます。
降り方⑤:ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』
降りることも、留まることもできない人へ
最後の小説は、「レールから降りたい」ではなく「降りることも、留まることもできない」人のための物語です。
主人公ハリー・ハラーは50歳の知識人。
社会に適応できず、芸術と思想の世界に閉じこもり、自殺すら考えています。
若者の情熱でレールから飛び降りるのではなく、長年の疲弊の果てに、静かに崩壊しつつあるのです。
ハラーは自分を「荒野のおおかみ」と呼びます。
文明社会に属しながら、その中に居場所を持てない存在です。
この感覚に、胸を射抜かれる人は多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
ハラーは、自分の内側を、社会に属する人間と、そこから逃げ出したい狼の二つに分けて考えています。
しかし、作品が示すのは、人間は二つに割り切れるほど単純ではないということです。
私たちは、内面に無数の自己を抱えています。
社会に属したい自分も、逃げ出したい自分も、その無数の断片の一部にすぎません。
破壊し、走り、笑い、暴走した果てにこの小説へたどり着くと、「降りるか留まるか」という二者択一から離れられるはずです。
降りた後、どうやって生きるのか:pha『ニートの歩き方』
ここまで5つの小説を通して、さまざまな「降り方」を見てきました。
しかし、レールを降りた後には、どのような暮らしが待っているのでしょうか。
phaの『ニートの歩き方』は、会社を辞め、定職に就かず、シェアハウスの運営などをしていた時期の暮らしを記した本です。
この本が示すのは、「会社を辞めることが、ただちに人生の破綻を意味するわけではない」ということです。
生活費を抑える。
インターネットを通じて人とつながる。
自分に必要な分だけ働く。
誰もが真似できる方法とはいえないかもしれません。
それでも、会社員として働き続ける以外にも、暮らしを組み立てる方法があると教えてくれます。
本書に描かれているのは、刊行当時の著者の生活です。
それでも、「自分が耐えられる生活の大きさを知る」という発想は、今も示唆を与えてくれます。
その地味な日常の記録こそが、レールから降りることを考えている人に、具体的な足場を見せてくれるのです。
本を読んでも、苦しさが続くときは
レールから降りたいと思っても、実際に動けない夜もあります。
そんな焦りが続いているなら、誰かに話を聞いてもらうという選択肢もあります。
今すぐ気持ちを吐き出したいときは、気軽に話せる相談へ。
同じ苦しさが何度も戻ってくるときは、じっくり向き合うカウンセリングへ。
当サイトでは、この2つの相談先をまとめています。
本だけでは抱えきれないときの相談先はこちら
どちらが自分に合うか迷う場合は、2つのサービスを比較したページも用意しています。
オンラインカウンセリング比較|本だけでは抱えきれない夜の相談先
つらさが強い場合や、日常生活に支障が出ている場合は、心療内科や精神科などの医療機関に相談することも考えてみてください。
レールの上にも、外にも、あなたの道はある
『ファイト・クラブ』は「壊す」ことを、『オン・ザ・ロード』は「走る」ことを描きました。
町田康の『告白』は、笑いによって「普通」の外側を見せ、『罪と罰』は「思想」で法を超えようとする危うさを突きつけます。
『荒野のおおかみ』は、自分を二つに分けるのではなく、無数の自己を抱えて生きるという視点を示しました。
そして『ニートの歩き方』は、降りた後にも日常が続いていくことを見せてくれます。
この記事を「レールから降りろ」という扇動として読んでほしくはありません。
人生は、降りるか、残るかの二者択一ではありません。
速度を落とすことも、いったん立ち止まることも、別のレールへ乗り換えることもできます。
大切なのは、「降りる」という選択肢が存在すると知っていること。
そして、どの道を選んでも、その先にも生活は続いていくと知っていることだと思います。

