恋をしているとき、私はよく夜中に冷蔵庫を開けた。
べつに何かを食べたいわけじゃない。ただ、あの冷えた光の中に立っていると、頭の中でぐるぐると回り続けているものが、少しだけ止まる気がした。なぜ返信が来ないのか、あの言葉はどういう意味だったのか、私はどうしてこんなに振り回されているのか。
恋愛って、いつのまにかそういうものになっていく。胸が高鳴るはずが、気がつけば冷蔵庫の前で立ち尽くすことになる。
疲れた、という言葉は正確じゃないかもしれない。疲れたというより、消耗した、に近い。何かを求め続けて、でも何が欲しかったのかもよくわからなくなった、あの感覚。
そういう夜に開いた小説が、今でも棚に並んでいます。
恋愛疲れの、4つの手触り
恋愛に疲れると一口に言っても、その質はさまざまです。
自分に自信がなくて、好きになること自体が怖い疲れ。「正しい恋愛」を追いかけすぎて、選択肢の前でフリーズする疲れ。返信の速度や関係の進展に翻弄される、現代特有のスピードの疲れ。そして、いつのまにか恋愛に自分を乗っ取られて、「私はいったい何がしたかったんだろう」と立ち尽くす疲れ。
ここで紹介する4冊は、それぞれ異なる「恋愛疲れの手触り」を持っています。どれか一冊が、今夜のあなたと共鳴するかもしれません。
処方箋①:『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子|自信がなくても、恋は来る
人と話すことが怖い。傷つくことが怖い。そもそも自分なんかが誰かを好きになっていいのかさえ、よくわからない。そういう場所から恋愛に消耗しているなら、この小説はしずかに手を差し伸べてくれます。
主人公の冬子は、誰もいない部屋で一人、校正の仕事をしている。感情を外に出すことが苦手で、人との距離を上手く測れない。そんな彼女が三束さんという男性と出会い、かかわっていく物語です。
派手なことは何も起きません。ただ、二人が言葉を交わし、食事をし、それぞれの夜に帰っていく。その繰り返しの中に、「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろう」という一文が漂っています。
川上未映子の文章は、感情の細部を精巧に切り取ります。読んでいると、自分でも言語化できなかった「恋の怖さ」「近づきたくて遠ざかる感じ」が、自分の中の記憶や感情と溶け合っていきます。感動させようとしていないのに、気がつけば泣いている。そういう本です。
不器用でも愛される、という可能性を、説教なしに体感させてくれます。
処方箋②:『汝、星のごとく』凪良ゆう|「正しい恋愛」なんて、存在しない
恋愛に疲れる理由の一つは、「こうあるべき」という正解を探し続けることにあると思います。もっと上手く愛せれば、もっと正しく選べれば。そのぐるぐるが、人を消耗させる。
暁海と櫂は、瀬戸内の島で出会った高校生です。彼女には問題を抱えた母がいて、彼には自由奔放すぎる母がいる。正しくいることを求められながら、正しくいることができない二人が、長い時間をかけて愛し、傷つき、それでも生きていく。
「まともな人間なんてものは幻想だ。俺たちは自らを生きるしかない」という台詞が、物語の核にあります。
この言葉に触れたとき、正しくあろうとして消耗していた自分の恋愛を、手放す気力をもらったような気がしました。
「正しくない選択をした人間」を丁寧に、愛をもって描く小説。2023年本屋大賞受賞作ですが、受賞の話題性よりも、物語の密度と誠実さで選びました。読後、自分の過去の選択を責める気持ちが、少しやわらぎます。思いっきり泣きたい夜に。
処方箋③:『センセイの鞄』川上弘美|恋愛の速度を、落とす
恋愛疲れには、もしかしたら「速さ」が関係しているのかもしれません。返信の速さ、関係の進展の速さ、結論を出す速さ。現代の恋愛は、あらゆる場面で速度を要求される。私は、じれったさを楽しむプロセスも恋の醍醐味だと思うのだけど……。
『センセイの鞄』は、30代後半の女性・ツキコと、30以上年上の高校の恩師との、ゆっくりとした時間の物語です。居酒屋のカウンターで隣り合い、季節の肴を分け合い、酒を楽しむ。大きな事件は何も起きない。ただ、季節が変わり、二人の間に静かな何かが積み重なっていく。
年の差のある二人の物語ですが、作者が描きたかったのは、相手のことを愛おしく思っているのに不器用でうまく伝えられない男女の風景だったのではないでしょうか。
恋愛ベタといえる二人は、太陽ではなく月のような愛情を育てていきます。すぐそばに居る、けれども本当は月のように手が届かない、儚い関係なのかもしれません。
恋人の絶妙な距離感を描き切る、川上弘美の筆致は唯一無二です。現代の恋愛の速度に消耗した人が、この小説の「遅さ」に身を浸すと、恋愛とは本来こういうペースでもいい、という感覚が戻ってきます。
「今度、一人で冷蔵庫を開けたくなったら、お財布を握って駅前の一杯飲み屋にでかけよう」。そんなふうに思えてくる、滋味深い物語です。
処方箋④:『ナチュラルボーンチキン』金原ひとみ|ルーティンの向こう側に、私がいる
恋愛に疲れ果てると、人はルーティンに逃げ込むのではないでしょうか。毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じように帰ってくる。それは防衛でもあるし、「もう何も求めない」という宣言でもあります。
浜野文乃は45歳、一人暮らし。仕事と動画とご飯というルーティンで、毎日をきっちり埋めています。「自分には何もない」と思いながら。
ある日、職場の同僚の代理で訪れたホスクラ通い編集者・平木直理の部屋で、何かが動き始めます……。
これは恋愛物語であるよりも、本来の自分に戻る話です。金原ひとみが「中年版『君たちはどう生きるか』だ」と自ら語る作品。登場人物全員が愛おしく、最後には涙がじわっと滲みます。恋愛に疲れた先で「じゃあ私はどう生きるか」を問い始めたい人に。
本だけで抱えきれないときは
本を読む気力さえ湧かない時、それは心が休息を求めているサインかもしれません。思考の枠組みを変えることで楽になる部分は確かにありますが、感情の重さが限界を超えているなら、一人で抱えることをやめていい。
オンラインカウンセリング「Kimochi」
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まとめ
恋愛に疲れたとき、激励は要りません。「また頑張ろう」も「次こそ」も、今は重い。
ただ、誰かの恋愛の物語の中に座って、しばらく自分の恋愛を忘れてください。気がつけば、冷蔵庫の前に立つ夜が、少し減っているかもしれません。
一冊だけでいいです。今夜、棚から引き出してみてください。

